私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書 2172)

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実質価格:938円

ブランド:講談社

評価:★★★★☆ (4.3 / 5)

📢 Amazonでの購入者の声を紹介します


【1】

人は関係性のなかで生きている。ゆえに、愛するということは、その人といる自分を好きでいられることを意味する。そんな一節が非常に印象的だった。平野さんがこんなにもわかりやすい形で思想を提示してくれることが、ほんとうにうれしくてたまらない。


【2】

途中までモヤモヤを感じながら読んでいたが最終章でスッキリすると言う、小説さながらの本でした。一人 という単位を素数だと思い込まないことが大切。


【3】

「一人ひとりに固有の“本当の自分”がある」という考え方は、現代の常識といってもいいほど根強く信じられています。ところが、本書はその常識を疑い、「人は相手や状況に応じて複数の人格を持って当然」と主張します。しかも、それらの人格はいずれも正真正銘の自分であり、それらを一つにまとめる“核”など必要ないという大胆な議論を展開。最初は「えっ、本当の自分を見つけなきゃいけないんじゃ…」と戸惑うかもしれませんが、読み進めるうちに意外なほど納得できます。たとえば、学校で友達とわいわいしている時、家で家族と過ごす時、一人で読書に没頭している時――それぞれ微妙に性格が異なっても、それをすべて「仮面」や「演技」と割り切るのは息苦しいでしょう。実際、ほかの読者のレビューには「とくに思春期には『周囲に合わせる自分=ウソ』と感じがちだけれど、この本を読むとむしろ“相手と共同で生まれる分人”と考える方が自然に思える」という声がありました。つまり、自分が状況に合わせて無理やりキャラを作っているのではなく、「あの友達といる時の自分」として自然に形成される一面もあるのではないか、というわけです。著者はこの現象を「分人」と名付けています。対人関係ごとに生まれる人格を“分人”とし、その集合体が今の自分だ、というのです。このモデルの利点はいくつもあります。まずは、「どんな場面でもブレない自我」を追い求める苦しみから解放されること。「職場で嫌なことがあって落ち込み、『こんな情けないのは本当の自分じゃないはず』と苦悶するより、“職場上司との分人はこういうもの”“趣味仲間との分人は明るい自分”と認めた方がいい」というわけです。これによりストレスが分散され、「一か所の失敗で自分全体が否定されたように感じにくくなる」というメリットが生まれる、と本書は繰り返し強調します。実際、「多面的に生きることこそが強さになる」と背中を押された、と評価する読者も多いようです。さらに第4章や第5章では、恋愛や死別、社会の分断といった大きなテーマにこの分人論を応用しています。恋愛については「相手に惚れているつもりでも、実は『その人といる時の自分が好き』という仕組みが多いのでは」という指摘があり、一見ドキッとする主張です。しかし、他の読者の感想には「パートナーと離れがたいのは、その相手の前にいる自分が一番楽だからだと腑に落ちた」といった声が見られ、“恋=自分の新しい面を知って楽しい”という視点が新鮮です。死別に関しても、「亡くなった人との分人はもう更新されないが、自分の中で消滅するわけではない」という記述が、追悼の在り方に新たな光を投げかけます。読後、多くの読者が「なるほど、相手がいなくなっても“あの人といる時の分人”は自分の中に記憶として息づいているのか」と感じ、故人との関係を喪失だけで終わらせない考え方に目覚めたと言います。こうした視点は、グリーフケア(悲嘆ケア)の一端としても興味深いものです。本書の後半で印象に残るのは、「近代の社会システムが“個人”を前提としてきた意義」と「今後の社会で“分人”をベースに考えるメリット」との対比です。著者によれば、西洋が中世から近代へ移行する過程で「個人の権利」や「個人の自由」が尊重されてきたのは大きな進歩だった一方で、個人単位では測りきれない複雑なアイデンティティが生まれている現代では、「一人ひとりが複数のコミュニティや文化にまたがって所属する」ことが当たり前になってきたといいます。そのため、「今の社会を“分人”の視点で捉えることで、摩擦や分断が起こりにくくなる可能性がある」という主張は非常に示唆的です。実際の文章は小説家らしく具体的なエピソードが豊富で、論理重視というよりはエッセイに近い読みやすさがあります。簡単な歴史解説や社会事例も散りばめられているので、予備知識なしでも問題ありません。「アイデンティティの哲学」と聞くと難しそうな印象を受けるかもしれませんが、むしろ“自分の身の回りで起こっていることの言語化”としてサクサク読めるはずです。本書を読んで、私はネットサービスのデザインにも「分人」的アプローチが必要だと確信しました。ユーザーが一つのアカウントしか持っていなくても、場面によって発言のトーンや関わり方は多様に切り替わります。従来は「多アカウント禁止」というルールが一般的でしたが、むしろ人間の本質は「多アカウント化」しているとも言えるでしょう。いっそ正式に許可して、複数の人格を使い分けやすいプラットフォームを設計することが未来を開くのではないか、とすら思えます。「分人同士のマッチング」と考えれば、まだまだ面白いサービスが生まれそうな気配があります。まとめると、本書は「本当の自分」神話から抜け出せずに苦しむ人に、視野を広げてくれる一冊です。周囲に合わせてばかりで疲弊している方も、「自分らしさを貫かなきゃ」と息苦しくなっている方も、それぞれに得るものがあるでしょう。読み終えれば、「いろいろな場所で違う自分がいてもいいし、どれも大切なんだ」という、肩の力がふっと抜けるような開放感に包まれます。一方で、すべての分人をどう調整していくかは読者自身の課題として残るので、考え続ける余地も大きい。気軽に手に取って、深く味わうことができる――そんな魅力が詰まった一冊といえます。


【4】

自分とは、というテーマで書かれた本の中ではとても分かりやすく納得できた。分人の理論はあらゆる方面で自分にはフィットすると思った。


【5】

1章とはかわかりますが後に行くほど難しいので何回か読み直さないと私は理解できなそうです


【6】

分人という新しい概念により、いろいろなことが整理されており、いままで言語化しにくかった、いやむしろできなかったことをも説明できているのではと思えるくらい、興奮して読み進められました。さすが作家といったところ。人を愛するとは、その人そのものというよりも、その人との分人を愛していること、その状態の肯定、という記載が一番腑に落ちたところです。自分とは、人間とは、人間関係とは、に思い悩んでいたり関心がある方はぜひ。


【7】

なりすまし「分人」との折り合いをつけようとしているうちに自分が別人格になってしまう恐怖もわいてきた。


【8】

「分人」をもとに考えることで、これまで自分が「個人的!」に抱えてきた問題を再考察し、そして一筋の光のようなものを見いだせそうな気がしてきた。


【9】

これ以上分割できないものとして近代西洋哲学の概念の基礎となる個人(indivisual)に対し、平野啓一郎さんが対人関係毎に異なる自分があり、その総和が自分であるという分人(divisual)の考えを提唱した本。【場面ごとに異なる自分】平野さん自身が経験した違和感として、以下のような場面により異なる自分の現出がある。これらの場面で、どれが本当の個性であり、自分であるか戸惑った。●カトリックの学校で友達とにぎやかに過ごす自分⇔家に帰り小説の世界に一人没頭する自分●パリ留学中フランス語上位クラスで寡黙で陰気な自分⇔パリの日本人コミュニティの中で饒舌で陽気な自分●大学の友人との飲み会に高校の友達が参加したときの居心地の悪さ●対編集者、対母、対子供、対作家での自分【ペルソナの問題】ペルソナに代表されるように本当の自分があり、場面ごとに仮面を付け替えていると考えたときに、この本当の自分がはらむ問題として、以下がある。1.誰とも「本当の自分」でコミュニケーションを図ることができない2.一方的にこちらが決めて演じるものではなく、あくまで相手との相互作用3.他社と接している「分人」には実態があるが、「本当の自分」には実態が無い(本当の自分が存在しているかどうか、それを感じる時がない)【個人と仕事の関係】個人が注目されてきた理由の一つとして、個性と仕事の関係性を取り上げる。仮説)個性の尊重は、将来的に個性と仕事を結びつけることを意味している。つまり、自分のしたい仕事をすること事こそが、個性的に生きるということ。仮に上記を達成しようとした時に、問題となる事実が、「職業が個性に基づいて用意されていない」ことである。例えば、手紙を届けるのが好きで得意な人がいるから、郵便屋さんの仕事ができたのではなく、手紙のやり取りをする必要性から、郵便屋さんの仕事ができている。誰しも今の自分がやりたいことは何か、今の仕事が本当にやりたいことか悩む場面があり、ここにアイデンティティの苦しみが生じる。その結果、内側にベクトルが向くと引きこもりに繋がったり、外側に向くと自分探しという行為に繋がる。これは真綿で首を絞められるような苦しみである。【個人の発生】個人の発生は、キリスト教と言語学や自然科学のような論理学の2つの側面から生み出されたと考えられる。●キリスト教・・・誰も二人の主人に仕えることはできない。ただ一つの本当の自分で一なる神を信仰しなければならない。●論理学・・・分けていくことで世界を記述しようとする。【分人の発生】自分の個性を尊重されたいと思うと、他人の個性も尊重しなければならない。その場合、本当の自分をゴリ押しできず、その場でコミュニケーション可能な人格をその都度作る。しかし、誰かと会うたび全く新しい自分であることはできない。反復的なコミュニケーションを通じて形成される一種のパターンが人格であると言える。これらのコミュニケーション上の傾向から、分人の発生プロセスを考える。1.社会的な分人の形成/エレベーターでの会話をする自分、行きつけのコンビニでの自分2.グループ向けの分人の形成/学校やコミュニティなどでの振る舞い、キャラ3.特定の相手に向けた分人の形成/自分の個性を認めてもらったうえで付き合ってほしい特定の人(恋人、親友、親、兄弟など)【分人で考えなおす】●誰と付き合っているかで分人構成比は変わる。その個性が個性。●個性とは生まれつき不変なものではない。●変化を肯定的にとらえられる。●好きな分人を足掛かりに人生を肯定的に生きられる。【自分と他者を見つめなおす】分人で考えると、すべての自分を構成する分人は他人との相互作用であるから、どんな悩みも半分は他人のせい、ポジティブな結果も半分は他人のおかげさまと捉えられる。先の大学の友人の飲み会に高校の友達が入り気まずさや中学校の運動会で必死に騎馬戦を戦っている姿を親に見せたくないのは、分人を混ぜたくないと考えている。私と仕事どっちが大事なのという問いも、仕事の分人と私の分人どちらが大事なのという問いに置き換えられる。【分人思考で自分を好きになる】●世界か、自分かどちらかを愛する気持ちがあれば生きていける(小説「決壊」)。●人はなかなか自分を好きだと堂々と言えない。しかし、誰それといる時の自分は好きと言いやすい。●誰かといる時の自分が好きということは、他者を一度経由している。●自分を好きになるためには、他者が不可欠であるとうパラドックスこそが分人主義における自己肯定に繋がる大事なポイント。【愛すること、死ぬこと】分人主義では、誰かの存在で自分や相手が自身を愛せるようになることが愛と考える。愛とは一時的なものではなく持続する関係。相互の献身の応酬ではなく相手のおかげで、それぞれが自分自身に感じる特別な居心地の良さではないかと主張する。分人は、コミュニケーションで少しずつリフレッシュされる。ここから死について考えると、死とはその人との分人が更新されないことを意味する。また、殺人はその人だけではなく、周辺の人たちからさらに周辺の人に広がる無限の分人リンクを破壊する行為である。老いるということは、自分自身の分人を整理していくということ捉えられる。【個人主義と分人主義まとめ】個人主義(indivisual)…他者とは明確に区別される。栄光はあなたの手柄。=>分断的分人主義(divisual)…他社との関係においては不可分である。=>非分断的個人主義は一個の独立した自分を想起させ、どこかに本当の自分があり、自分の本当にやりたいこと(仕事)を選んで、社会に貢献させる。一方で、他者とのかかわり方が一定でないため、本当の自分を想定したときに偽りの自分を演じている感覚に陥る。また、本当の自分がやりたいことはなんだろうという漠然として真綿で首を絞められるような苦悩を味わう。分人主義は、本来人間が人と人との間に存在するもので、他者と不可分であるが故に、すべての場面の自分を肯定的に受け入れられる。大きな悩みがあってもそれは、すべて自分の責任ではないという、駆け込み寺のような救いに繋がり、何か成功しても、半分は他人のおかげという感謝の気持ちに繋がる。これ以上分けられない個人主義が生んだ他人との分断を埋め、肯定的に他者との関係の中で生きていく視点の転換になる考えだと思います。


【10】

非常にわかりやすく描写も含めて説明されているので分人の概念がわかりやすい。全て本当の自分。概念の転換、まさに概念の革命であると感じました。


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※この記事は 2025年6月27日 時点の情報です

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